「誰とでも話す笑い合う」
笑い合おうというのは、いろいろ神経をつかって、ストレスを抱えこんでいるより、とにかく身体にいい、という事ではないでしょうか?
「ストレス」はウイルス.病原菌より人の生体を不調、不健康にする、健康に悪いとも言われています。
理屈と関係なく、笑えるとか、箸が転がってもおかしい、という、なぜかおかしいという事もありますが…。
自分以外の人と話をする事が健康にいい、という事ではないでしょうか?。
アイツとは付き合いたくない、と思われないよう、に生きたいと思います。
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同じ笑いでも、人に笑われるのは嫌だと言われます。「人に笑われる」時の笑いはホントの「笑い」ではなく人に見下げられる、という例えですから、笑われたくないのが人情ではありますが…。
泉重千代氏の「長生10訓」の解説を綴っていますがいろいろ調べていると、泉重千代氏はほんとに120歳までお元気だったの?、という疑問があって、現在では「ギネス」での世界最高齢者記録から削除されているそうです。
だからと言って、氏の書き残した「長生10訓」が否定されたとは思えません。
あるお医者さんは「年寄りはどこか具合が悪いのが正常」と言っています。
年齢が70、80過ぎていても病気を治すためと称した手術を勧める医者がいます。治る確率が低くても、治る方にかけたい人の心情は分ります。でも治療手当をしたから必ず治るというモノではありません。治る保証をしてはいません。それが現代の医療なのです。
くどいようですが、病気が治るのは親や、ご先祖様から頂いた身体に備わっている「自然治癒力」のおかげなのです。
「薬石効無く」ご臨終というのがあるのが「命」なのです。
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「医者は神ではない」と言われています。
自然の、命を活かすシステムの中には、病気を治すチカラ、病気にならない、かかりにくいチカラというのもあります。その事を「自然治癒力」「免疫力」と東洋医学では言っています。
しかしそうした「自然治癒力」とか「免疫力」を現代の西洋医学は無視しようとしています。
生体臓器移植などの手術の時「免疫抑制剤」というのを注射する(うつ)事があるそうです。
病原菌を防ぐ場合や、身体にとって、異物、危険なモノが生身の身体に入って来た時に作用すると言われているのが「免疫力」なのです。
例え、生きた臓器であっても他人の臓器は異物ととらえるのが生体なのだと言われています。
その異物を排除しようとする反応を抑える「免疫抑制剤」は現代医学の「臓器」移植がなぜあるのかを考えさせられます。
生(なま)の臓器を移植する時に、免疫力の中にある「異物排除機能」が働いてしまっては)手術する意味が無いので困るようです。
手術は成功しました、○○症を併発して死亡しました。と言う例はあまりマスメディアでは報道されませんがかなりあるそうです。
医者に手術された人が死んでしまえば合法的「殺人」なのです。
医者には他人にメス(刃物)をあて、傷をつけるるのは医療行為としてみとめられています。傷害や殺人行為にはならないのです。
しかし例え、殺すつもりが無かったとしても医者が手術をする前は生きているのが普通なのです。
手術が成功したなら、病気は治っているはずなのに、手術後に死亡してしまうのは手術そのものに問題があると思います。
しかも病気が治らずに死んでも治療費というのが遺族に請求されるのです
治療費ではなく「手術にかっかった技術費用」と言うべきです。
人が死亡した時どういう死に方だと「大往生」と言えるのでしょうか?
「大往生」とは「生まれてきてよかった」「生きて来て良かった」と思いながら死ぬ事だというのは、作詞家「永六輔」氏の考え方です。
「自分の命を誰にゆだねようと自分の勝手だ」と言う人は、いるかも知れません。
そんな人は、どうぞご勝手に・・・。 大きなお世話でした。
病院の手術は生身の身体にとてつもないストレスを加える事だと言われています。
大病を患ったとしても「患い」も自然が授けた事、運命と思いましょう。
病院での「闘病」ではなく、自分の中にある自然治癒力を高める、いろいろな手当てを信じ、普段から活かしていきたいと思います。
病に倒れるのも、自然の定め、治る治らないも、自然の采配、人間のチカラではどうにもならない事が多いのです。違う言い方をすれば「運命」という事ですが…。地震、台風などと同じで、自然の法則、宇宙のチカラ、神のチカラには逆らえません。
どんな大富豪でも寿命をコントロール出来ません。命には、いえ、物には寿命というのが必ずあって、限りがあるのです。
死んだ後、天国で永遠の命を授かる、らしいですが誰にも判りません。死んだ後お骨以外に何も残らない、のはあまりにも寂しい事ですが、それが現実です。
「健康と寿命はお天道様次第…」のお天道様は「キリスト」や「アラー」や「仏陀」の事ではない思います。それでも「神のチカラ」は存在するのです。